鈴木清写真展 「百の階梯、千の来歴」

鈴木清さんの回顧展が国立近代美術館で開催されるのを知ってから、楽しみな気持とそれを上回る憂慮があった。
それは氏の生前に開催された写真展を何度か見た事があったからだ。

緻密に構成された写真レイアウトと、挑戦的なほど大胆な会場設営。天井からぶら下がった球体や、突如として出現した砂山。
そのどれもがあまりにも前衛的で、「インスタレーション」なんて言葉さえ知らなかった当時の僕の脳裏に、奇々怪々なるものとして深く焼き付けられた。理解しがたい衝動と、押さえきれない高揚感で頭がすっかり混乱してしまったのを今でもはっきりと憶えている。
展覧会を出た後、会場近くの喫茶店で氏とお話しする機会があった。冗談を交えながらも本質をつく言葉達。未だ混乱の中にあった僕の陳腐な感想を、笑いながら一蹴されたのを思い出す。

それらの経験があまりにも鮮烈な印象として残っているので、氏が不在のまま構成される展示を見る事にある種の不安があったのだ。
しかし近代美術館の会場に身を置き、写真と対峙すると、その不安は杞憂となった。氏の過去の展示に基づいてだろう、壁面構成も美術館にしては珍しいほどバリエーションに富んだもので、オリジナルプリントだけでなく、氏の手によって何度も何度も修正が加えられボロボロになったダミー本や装丁のラフスケッチなどが壁面に並ぶ。
そして展示の一角、これも氏の手による展覧会構成の為の会場見取り図には、僕も見た「デュラスの領土」のものもあった。細密なイラストの上に書き込まれた無数の細かい文字、さらに切り貼りされたメモ用紙。その見取り図を隅から隅まで眺めるうちに当時の記憶が蘇る。一点一点の写真の配置だけでなく、ほの暗い会場の灯の記憶、そしてそのさなかに在る自分の姿までも。

同時に展示されている写真集についても、一冊一冊時間を掛けてじっくりと見た。以前はパラパラとしか見ていなかったが、改めて手に取ると、写真展同様、その構成の緻密さに驚かされる。それは写真の構成だけにとどまらず、表紙デザイン、見返しの紙のテクスチャーやそこに印刷された図柄、文字組や奥付けまでも。発刊より幾年月が経とうとも、全く色褪せる事など無く、むしろ更なる輝きを放って見える。二十数年前に発行された「天幕の街」と「夢の走り」はデザイン、印刷技術どれをとっても現在最新の写真集と比較してなお新しさを感じる。そしてその後に発行された「修羅の圏」や「デュラスの領土」などについては、未だ時代が追いついていないとさえ感じてしまう。
一冊の写真集に込めた執念や、それを実現する行動力と膨大な知識量に驚きを隠せない。

結局昨日までに三回足を運ぶことと相成ったのだが、二回目に参上した折、氏の双子の娘さんである光さんと遊さんとお話しする機会に恵まれた。父親としての鈴木清のことや、「路上の愚者・浦崎哲雄」と遊さんとのエピソード、残された作品との対面の瞬間の驚きなどについて話してくれた。写真家として、父として、奔放に生き、また葛藤し、多くの作品を残してこの世を去った鈴木清のことを語る時の、お二人の表情が何故だか羨ましく思えたのでした。

ともかく2010年最良の写真展でした。12月19日までの開催なので、終了までにあと一回は見に行こう。

鈴木清写真展 「百の階梯、千の来歴」

2 thoughts on “鈴木清写真展 「百の階梯、千の来歴」

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    鈴木清の今回の写真展に行けない私は、有元さんのwhy now tibetを
    今年の一番とさせて頂きました。
    初めまして

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    sa55zさま

    はじめまして。コメントいただきありがとうございます。
    私の写真展に賛していただき嬉しく思います。

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