帰宅中、僕の乗った電車が人を轢いた。
消防、救急、警察、ブルーシート。
嫌悪感をあらわにする乗客達。メールする人、電話する人。
見ようとする人。目をそらす人。
読解不能な感情の飽和した車内。
しばらく扉は開きそうもない。
バラバラになった肉片を尻の下に感じながら、持っていた詩集をひらく。
其頃、私は、情愛豊な少年であつた。
其頃私の世界に総てのちかひは美しかった。
其頃の日日は、暗い、単調な私の生涯に、思出の細い燐寸を擦つた。
其頃、私の涙は薄荷水であつた。
其頃の懊悩は花綾であつた。
其頃私の恋い心は茴香であつた。
其頃私は神々よりも幸であつた。
其頃私は神々よりも幸であつた。
金子光晴 「翡翠の家」より一部抜粋
見知らぬ人の勝手な死は、全くもってアートにならない。